七代目の挑戦

「奈良墨のひと」掲載の理由

◆「奈良墨のひと」掲載にあたり

昨年より錦光園WEBサイト内で掲載を開始した「奈良墨のひと」。何百年と続いてきた奈良の地場産業である墨作りに関わる、普段は表舞台に出る事のない関係者のことを少しでも世間の方に知って頂きたくて、そしてその掲載記事を通じて奈良墨への理解を深めて頂きたくて掲載を始めました。外部で協力して頂いている方と一緒に取材しながら記事作りをしています。造詣深い書道関係者の方々ではなく、あくまで一般のあまり墨に馴染みのない方やこれから墨のこと、書道のことを知ろうとして頂いている方々を対象に記事を作っていますので文献・資料に出てくるような深さ・綺麗さはありません。ただこの記事を読んで頂き、1人でも多くの方が奈良墨に興味を持って頂ければ有難いなと思っています。数か月に一度の更新しか今の所出来ませんが、将来的には2か月に1回ぐらいのペースで掲載出来たらと考えていますので楽しみにしておいて下さい。

 

錦光園WEBサイト「奈良墨のひと」

https://kinkoen.jp/hito/

 

◆偶然見つけた文献から

そんな中、先日のことですが、墨に関する資料や文献を調べていると、とある著者が書かれた本の一節に、まさに今回の「奈良墨のひと」を掲載していこうと決めた想いそのものがまさに代弁されているかの如く記載されていたのを見つけたので、原文のまま記載します。

 

「墨作りの仕事は一人の墨匠だけでもやれないことはあるまい、だが、ごく初期の時代はともかくとして、その後は煤や膠を作る人、墨を練る人、形作る人、乾かす人、仕上げする人、型を作る人、型の字や絵を書く人、それを彫る人など直接働いた人が必ずあったはずである。そしてそれらが全て見事に積み上げられた時に名墨を生んだわけだが、最後の結果としては、ほとんどの場合一人の墨匠の名が名匠として残るのにとどまり、ほかのたくさんの人たちの名はまずしりようがなくなってしまう運命だった。私はこうした蔭の墨作りの人たちを貴く思う。彼らは彼らの作る墨が、良い墨であるようにと、ただ一筋に励んだことだろう。そして作られた墨が名墨としてうたわれる時には、一将つまり前記のような墨匠一人の名を残すだけで、彼らは万骨として枯れていったのである。だから私たちは、名墨匠として記載される人たちの蔭に、これら多くの無名墨工のあったことを忘れてはなるまい。この無名墨工の姿は、今の奈良でもそのままである。」

 

◆これからのこと

また先ほどの文面の最後には次のような一節も記載されています。

「永い間、文化、少なくとも東洋文化の花を咲かすのに大きい役割を果たしてきた墨、それ自体今は蔭の存在になっているのだから、墨工たちが同じ運命にあるのも当然といえるかもしれない。」

この本が書かれたのは数十年前のこと。数十年前でこの状態。今では奈良の墨作り、産地そのものが風前の灯に差し掛かっている状況です。そんな流れの中で、自分達が何が出来るか、自分達にしか出来ないことを精一杯行い続けることが錦光園の務めだと思っています。これからも奈良墨をよろしくお願いいたします。

 

錦光園WEBサイト「奈良墨のひと」

https://kinkoen.jp/hito/

 

 

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