奈良墨磨業 鈴木育弘
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小さな違いの価値を伝える「みがくひと」
奈良墨磨業 鈴木 育弘 (すずき いくひろ)
墨を磨(みがく)? 墨を洗う?
一般的には聞き慣れない表現ばかりです。
実はそれらは全て、製墨における大事な「仕上げ」の工程です。
くすんだ黒色に艶やかな衣を身に纏わせ世に送り出していく・・・
そんな裏方の仕事をする職人さんのお話です。
奈良墨を“磨く”(みがく)?
固形墨、硯で水と混ぜて磨って(すって)使うのですが、今回の職人さんのお仕事、同じ漢字【磨】という漢字を使いますが、読み方が違います。
磨る(する)ではなく。奈良墨を磨く(みがく)職人、鈴木さんです。
鈴木さんのお人柄の印象はTHE職人というイメージではなく、終始にこやかに、時に冗談を交えながら丁寧にご説明くださいました。
さて、“墨を磨く(みがく)”とは一体何をする職人さんでしょう。
それを知るためには、まず固形墨の製造工程を知る必要があります。
固形墨の製造工程は大きく分けると、
①型屋さんの木型製作
②墨製造元で型に墨を入れて乾燥させる
③磨き屋さんで表面を磨き仕上げ
④絵付け屋さんで彩色
の4つに分かれます。
今回のご紹介する磨き職人の鈴木さんは③の磨きに携わられています。
色々な固形墨を見ていただくと、たまにツヤがある墨があることに気づくと思います。このツヤ、実は塗料などを塗って出しているのではなく、磨いて出しているのです。
ツヤがあるもの、ないものがある。奈良墨の中には①と②の工程で完成するものもあります。誤解を恐れずに言えば③の磨きは奈良墨に必須の工程ではないのです。
でも鈴木さんの祖父、お父様、鈴木さんご自身、3代に渡って墨磨き業は続いています。
なぜ長きにわたり墨磨き業が続いてきているのか?具体的に磨き職人の仕事は磨くだけなのか?磨きの持つ意味は?磨き業の醍醐味は?などを鈴木さんにお話を聞き、深掘りしていくと見えてきた日本のものづくりの強みがありました。
墨磨き業の系譜
第貮拾号 奈良墨磨き業 鈴木留治郎
(だいにじゅうごう ならすみみがきぎょう すずきとめじろう)
これは工房に入ってすぐの柱にかけてあった看板です。
鈴木家が奈良墨の磨き業の登録をされたのは鈴木さんのおじいさんの代。当初墨磨き業を生業にする方も多く、登録自体は20番目だったそうです。鈴木さんが継がれた当初同業者は沢山いたそうで、実は鈴木さんの工房でも職人さんが5人もいたそうです。
ですが、他の筆記具が主流になり、書道でも墨汁が使用され、墨の需要が減少し、同業者の方々は皆さん廃業されて現在は全国でも鈴木さんのみになってしまったといいます。
後継者はいらっしゃらないので、鈴木さんがされなくなれば、墨磨き職人がいなくなります。
お子さんもいらっしゃるそうですが、娘さんだということ、そして仕事の不安定さから、あえて継がせることはしなかったそうです。
鈴木さんご自身ですら「おれもほんまは継ぐつもりなかってんで」と笑いながらおっしゃっていました。
やはり職人の仕事とは大変なものだそうで鈴木さんですらそう簡単には継げなかったのだと言います。まさに職人気質のお父さんのもとでの修行は相当大変だったのだと。
「おやじ何にもおしえてくれへんねん、こうすんねんって言われるだけ。できるわけあれへん。笑」
技術を承継するために
しかし、鈴木さんに弟子がずっといないというわけではありません。これまでに教えたお弟子さんはいたそうです。でも実はその弟子は磨きの依頼元である取引先から「教えてやってほしい」と頼まれ学びにくる弟子だったそうです。
鈴木さんが磨き業の仕事をだれにも教えなければ、奈良墨における磨きという技術が失われる。逆に教えれば磨き専業の職人が生まれるわけではないですが、磨きの技術は残る。しかし、磨きの仕事の一部は取引先が社内でできるようになり、鈴木さんの仕事が少しづつ減っていく。
とても難しいご判断だったのだと思いますが、鈴木さんは磨きの技術・墨がなくなるよりも、ご自身の仕事が減っても磨きという技術が世の中に残ることを選ばれたそうです。
墨磨き職人の仕事「洗い」
さて、ここからは具体的に墨磨き職人鈴木さんのされているお仕事「墨磨き」とはどういったことなのかを見ていきたいと思います。
奈良墨の製造は工程でご説明したように、基本的には分業で成り立っています。その分業体制において磨き職人の出番は仕上げにあたります。
つまり言い換えれば「墨の仕上げ工程を担い奈良墨の価値を高める」お仕事とも言えます。
具体的には、私たち錦光園のような墨製造元で木型に墨を詰めて成型してしっかり乾燥させたものを鈴木さんの元に持っていきます。
ここからが鈴木さんの仕事が始まります。
まず最初に墨を洗うことから始まります。文字通りジャブジャブと水で洗います
墨は製造元で乾燥するときには灰をかぶせてじっくり、ゆっくり、しっかり乾燥させます。最低でも半年から数年の期間をかけて内側の水分がなくなるまで乾燥させます。ですので、鈴木さんの元に持ち込まれる墨は灰や埃で汚れています。
そのままでは商品として出せないので、綺麗に汚れを落とすべくしっかり洗います。
せっかく長期間かけて乾燥させた墨を水で洗っていいの?と思いませんか。でも全く問題ないそうです。一度完全に乾燥してしまうと簡単には染み込まない。確かに、そんな簡単に染み込むようであれば墨をする時に染みてしまいますね。
墨磨き職人の仕事「塗り」
墨を洗い、表面を乾燥させたあとに様々なものを混ぜ合わせた秘伝の液体で「塗り」の工程に移ります。うわぐすりで表面をコーティングするようなイメージです。
色を均一に落ち着かせるために行います。まばらにテカリがあったりする状態を落ち着いた深い黒色にします。
この工程のポイントは秘伝の液体。
人が良い鈴木さん、「これは何が入っているのですか?」と聞くと案外すんなり教えていただけました。さすがにここでは公表できませんが、とても意外なものが入っていて驚きです。
とはいえ、教えていただいたところで微妙な分量の調整が必要だそうで当然真似のできるものではないです。“秘伝の液体”実は以前は鈴木さんのお母様が作られていたそうです、「引き継ぐ時になって再現しようとしたけど納得いくものになるまで時間がかかった」と言われていました。
今回取材をさせていただいたタイミングで手掛けられていた製品には金箔の装飾も。
鈴木さんが開発された専用の道具で手際よく金粉を均等に付けていきます。キラキラと輝く金箔は真っ黒な中一際目を引く美しい装飾になります。
墨磨き職人の仕事「貝かけ」①
貝殻。なんとこれも墨磨きの道具なのです。
この工程を鈴木さんは「貝かけ」と言います。まさに貝を道具として使い、墨を磨く工程。
ここからが今ではほぼ鈴木さんしかできないと言われる、磨き業の中心となる高い技術が必要とされる工程になります。
塗りの工程で秘伝の液体で湿らせた墨をしっかり乾かした後、貝を使って磨く前に不思議な工程を行います。
それはなんと火鉢を使います。
火鉢を使い、墨を軽く温めます。時間にして数十秒。
そしてその後に専用のシュロの道具で温めた墨をゴシゴシと磨いていきます。
するとみるみる艶が出てきます。磨いた面と磨いていない面ではもう別物です。シュロで磨くだけで十分艶が現れ表面は美しく輝き出しました。
火鉢で温める理由を質問をしたところ、「まじない」と仰られていました。ですがこの艶の出具合と大きな関係がありそうですね。
墨磨き職人の仕事「貝かけ」②
これでやっと貝で磨く準備が整いました。これから実際に貝で墨を磨きます。
力を入れすぎると、墨に傷がついてしまって売り物にはならないので実はとても繊細な力加減が必要なのだそうです。
見た目にはとても大胆にゴリゴリと磨いているように見えましたが、長年磨き業をされてきたからこそわかる絶妙な力加減が求められます。
貝を使うことは不思議ですが、艶が最も美しく出るのだと鈴木さんは言います。そして、この貝で磨いた艶は変化することなく年月が経ってもこの艶のままだそうです。
左が貝かけする前の墨、右が貝かけした後の墨。
少しの違いですが、とても違う。艶の深さと言うのかはわかりませんが、丸く強い艶になりました。
磨く仕事の、楽しさ、奥深さ
ここまで磨き業としての仕事内容をじっくり拝見させていただきました。
そこで鈴木さんに「この仕事の楽しさはなんですか?」と聞いてみました。
すると「そんなもんないわ!笑」と言われてしまいました。「けど結局楽しいからやっとるんやろな」と小さな声で仰られていたのが印象的で、これが本心なのだと思います。
もうひとつ興味深かったのが「鈴木さんの好きな墨の仕上げ方法は?」と聞いたことに「洗い」と答えられたことでした。
つまり、シュロでの磨き仕上げでもなく、貝かけの仕上げでもなく、職人として1番シンプルな仕事、言い換えれば代えがきく仕事の「洗い」仕上げだったので驚きました。
でも、よく聞くとその理由が流石に職人という深い理由があったのです。
「貝かけなんかはわしのこだわりが出てしまうから」
長年されている鈴木さんでさえ職人として常に100点が出せない、満足することができないから好きじゃない。
おそらく鈴木さん以外では違いもわからないほどの細微な違いなのだと思います。
「納品行く時にお客さんに悪いなと思ってまうんよ」
節々に冗談を交えて、少しふざけながらとても気さくに、いわゆる職人さん的ではない雰囲気で質問にお答えいただいていましたが、やはり根っこには生粋の職人の血が流れていることを実感した瞬間です。
墨磨き職人として長年積み重ねてこられた年月がこの言葉をより重いものにしています。
日本のものづくりのカッコよさ
お気づきかもしれませんが、墨磨きのどの工程も大きく製品の形状を変えたり、カラフルにしたりするような大きな変化を起こす工程ではありません。
「どうしてこの工程があるのか?」
「しなくてもいいのではないか?」
そんな疑問も出てくることはあるかと思います。実際に墨磨き職人である鈴木さんの元に来る仕事は減少しているそうです。
でも、鈴木さんの墨磨きの仕事に「日本の職人、ものづくりの魂」のようなものを感じます。
日本のものづくりはいつからか、効率やコストを下げることばかりを重視して競争をするようになりました。その結果、私たちの奈良墨を含めて海外からの輸入物や安価な大量生産に地位を奪われていきました。
日本の職人・ものづくりが得意とするのはそういったことではなくて、墨磨きの各工程のように細部に魂を宿すような、小さな違いであってもより美しさを追求し、その小さな違いに日々頭を悩ませながらも黙々とものづくりに向かい合う、そんな姿勢。
そういった意味で鈴木さんの仕事は、日本人らしく、より美しくするために、他人が「これでいいんじゃない」という言葉に振り回されないとてもカッコいい職人さんだと再認識しました。
一面ではこうしたこだわりはビジネスとしてみたとき生産性が悪いと言われてしまいます。でも欠けていたのは生産性を追求する方向性ではなく、その「小さな違いの価値を伝える」ことだったのではないかと鈴木さんのお話を聞き認識をあらためる貴重な機会をいただいた気持ちです。
先ほど書いたように、鈴木さんには現在後継者となる方がいらっしゃいません。鈴木さんがやめれば磨き職人は世界からいなくなってしまいます。
「しゃーないんや」と言われる鈴木さん、ですがこれほど日本らしいものづくりの技術を失ってはいけないと私たちは考えています。こうして紹介させていただくことが奈良墨業界、そして磨き職人の世界に少しでも光をつなぐことができればと思っています。
小さな違いに魂を込める墨磨き職人の鈴木さんの姿勢からは日本のものづくりに携わる職人の本質を垣間見ることができました。
取材・撮影:2020年1月