墨型彫刻師 佐藤奈都子

伝統を絶やさず、未来へ彫りつなぐ

墨型彫刻師 佐藤 奈都子(さとう なつこ)

固形墨の製造において欠かせないのが、「墨型」と呼ばれる木製の型です。
専門の職人がこまやかな手作業で彫りだす木型は、その精度が固形墨の出来栄えをも左右するほど、とても重要な役割を果たします。

今回ご紹介する奈良墨の人は、そんな墨型の彫刻師である佐藤奈都子さんです。
いつも作業を行っているという「工房 なかむら」にお邪魔して、お話を伺いました。

佐藤奈都子さん

日本でただ一人の「墨型彫刻師」に師事

以前もこの「奈良墨のひと」でご紹介した通り、近年の墨の需要の変化などにともない、墨型を生業として、専門で手がける職人さんは今では「型集」と呼ばれる墨型彫刻師の七代目である中村雅峯さんただお一人となっていました。

ですが、大変嬉しいことにこの「奈良墨のひと」で中村さんをご紹介させていただいた事などをきっかけに、佐藤さんが中村さんの門戸をたたき、数百年の歴史を持つ技術は継承されることとなりました。

少しでも奈良墨の役に立てればと考え、始めた「奈良墨のひと」がこのように実を結んだことは何より嬉しいことです。

奈良の伝統工芸に憧れて

伝統工芸

神奈川県出身の佐藤さんは、お父様が奈良好きだったという事もあり、幼少期から何度も奈良を訪れていたと言います。
古典芸能の「能」を習うなど、日本に古くからあるものが好きだという佐藤さんは、2017年に神奈川県から奈良に移り住みました。

もともと、奈良で何かしらの伝統工芸や伝統産業に携わりたいという想いがあったという佐藤さんですが、意外にも、墨型の事を知ったのは奈良に来てからのことだと言います。

佐藤奈都子さん

奈良墨に関する知識を得たいと、色々な施設に見学に訪れる中で奈良墨の製造方法を学んだ佐藤さんは、そこで初めて「墨型」の存在を知りました。
ちょうどその頃に、この「奈良墨の人」の記事と、中村さんが実際に木型を彫っている姿を別の取材映像で目にし、「これをやってみたい!」と思ったそうです。

中村さんの記事

ただ、型集の技術は一子相伝で受け継がれてきたもの。
また、歴代の彫刻師はすべて男性だったという事などから、はじめは挑戦すべきか悩んだという佐藤さん。
しばらくの間気持ちを温め、それでもやってみたい気持ちが小さくなる事がなかったため、中村さんの元で修業をさせていただけるようお願いされたそうです。

佐藤奈都子さん

「最初はちょっと、趣味の延長かな?みたいなふうに先生は思われてたみたいなんですよ。」

墨とは全く関係のないところからやってきた佐藤さんをお弟子さんとして受け入れられた先生ですが、当時はそんな風に思っていたそうだと、明るく笑いながら佐藤さんは教えてくれました。

道具が仕事をしてくれる

道具

中村さんのもとでの彫刻師としての修業は、彫刻のための道具を作るところから始まったといいます。

墨型の制作においては、小さな墨型のさらにその中に、文字を彫ったり意匠を凝らすといった繊細な作業が必要となります。
そのため、彫刻師が使いやすいように、畳針や錐(きり)などの細い金属を加工して、彫刻のための道具をつくるのだそうです。

道具(ポチ)

ポチと呼ばれるこの道具は、先の細いものから太いものまで、15本ほどの異なるものを使用します。
彫刻師それぞれの手になじむように、大きさも変えて作られる道具たちを駆使して、作業は進められます。

道具(ポチ)

道具を自ら手掛けるというのは昔から変わっていないようで、工房には先代がたの使用していた道具が残されています。
昔はこうもり傘の骨の部分などを加工して丸刀として使っていたり、柄の部分を固定するために元結(髪を結うときに使われた紐)を巻いたりして道具を作っていたそうです。
現在ではとても貴重な資料ともなった道具たちは、展示会などで公開されることもあるといいます。

修業の日々

作り方や少しのコツなどは教えてもらえるものの、手取り足取りではなく基本は「見て盗め」の修業の世界。
佐藤さんは師匠である中村さんが作業している手元を見て、同じようにできるまで自分でやってみる日々が続いたそうです。

弟子入りして3ヶ月目くらいの時に初めて挑戦した「肉彫り」という技法では、奈良の鹿をモチーフに彫られたといいます。

肉彫り

「あまり深く彫ると、 鹿の肉感が目立ちすぎて。やりすぎちゃいけないっていうのを、 学びながらやった思い出がありますね。」

深く彫れば、墨になった際にはそれだけ盛り上がってきてしまう。
笑いながら修業を始めたばかりの頃のお話を聞かせてくださった佐藤さん。

その時は、中村さんの木型を手で触って、どのくらい彫っているのかを指先で確かめて感覚を学んだそうです。

彩色彫り

比較的楽しみながら修業を続けられたという佐藤さんですが、彩色を前提に彫る「彩色彫り」は難しく、苦労されたそうです。

文字が浮き出るように残して、周りの部分の木すべてを平らに削っていくのですが、周りを彫っていると、どうしても深くなっていってしまうと言います。
けれど周りを深く彫ってしまうと、そのぶん浮き出ている文字の部分が高くなってしまい、墨になった時に色を入れる文字部分が凹みすぎてしまう。

「そうすると、上品じゃない。先生は浅いほうが上品だとおっしゃるんです。」

墨

墨の上でも、本当に筆で書いた文字のように見えるほうが、馴染んでいて美しい。
そのためには浅く彫るべきなのですが、浅すぎると今度は墨の型入れをした際に摩耗するのが早くなってしまう。
経験から、0.3ミリ程度がちょうどよい高さなのだけれど、それが難しいのだと佐藤さんは教えてくださいました。

ひたすらに、ただひたすらに彫り続けてください

「失敗作」ではなくても、自身が納得できる仕上がりになるまで何度も削って彫りなおしていたという師匠の中村さんからは、こんな言葉をもらったと言います。

「ひたすらに、ただひたすらに彫り続けてください。」

その言葉をモットーに、佐藤さんは今も日々尽力されています。

心を動かされた、「売り物には花を飾れ」の精神

あまり注目を浴びる機会のない墨型ではありますが、型がなければ墨はできません。
木型は、墨をつくるための「道具」ではあるけれど、そこに芸術的な役割も兼ね備えています。

墨型

墨を磨ると、丁寧に彫って施した柄も消えてしまう。
けれど佐藤さんはそういった、“消えてしまうものにも美しいものを施そう”という気持ちを大切にされており、師匠の中村さんからも「売り物には花を飾れ」という言葉を教わったと教えてくださいました。

「売り物は綺麗にあつらえて売るべきだ、っていう意味の言葉らしいんですけど 。そういう、人が気づかなくても美しくしておこうっていう、そういう想いが響いたんですよね。」

墨型

使っていただく方に少しでも、綺麗だなと思ってもらえたり、見ていただいて少しでも心に留まることがあったら嬉しいと、佐藤さんはにっこりと笑いながら話してくださいました。

墨型を取りまく現状

様々な筆記用具の登場などもあり、筆をとる機会が格段に減ってしまった昨今では、残念ながら墨自体の需要が減っているのが現状です。
それに伴い、当然ながら墨型の需要も減少しています。
さらに墨型においては、既存のものを使い続けることが出来るので、新しい型の制作依頼は少ないのです。

墨型

「新規での制作となると、正直あまり今は多くなく、他は修理とかになってきます。」

木型が欠けたり摩耗していったりすると、墨の型入れの際に墨に余計な“バリ”ができてしまったり、不具合が生じてしまいます。
一度完成した墨型も、案外常に修理をしてのメンテナンスが欠かせないのです。

生業としての墨型作り

とても重要で伝統のある墨型彫刻の技術ですが、その仕事だけで生活をしていくのは少し難しいと佐藤さんは話してくださいました。
どんどん依頼が舞い込み、夜も寝ないで彫っていた事もあるという昭和の時代とは違って、近年は本当に少なくなってきているところだといいます。

墨型作り

新たに職人を目指される方がいらっしゃったとしても、簡単にお勧めすることはできないようで、少し複雑な表情を浮かべながら佐藤さんはおっしゃいました。

「複数のお仕事を持ちながら、それでも!っていう感じであれば・・・。」

ただ、深慮しながらも「挑戦してくれる方がいるのはありがたいので、一緒に頑張っていければと思います」と答えてくださいました。

けれど、決して厳しい話題ばかりではありません。

最近は若い型入れの職人さんで、新しい墨を作りたいとおっしゃる方もいるそうで、一緒に考えながら作っていこうとされています。
他にも、書家の方が自身のオリジナルの墨を作りたいとおっしゃられたり、記念品として墨を作りたいという個人の方もいらっしゃるといいます。
佐藤さん自身も、彫ってみたいデザインを墨にしていけたらと考えているそうです。

墨型作り

「昔から墨は結構、固めのデザインが多かったりするんですよ。だから、もうちょっと女性が興味を持ってくれるような柔らかいデザインとかも、あってもいいんじゃないかなと思って。」

墨型作り

昔は見かけたものの、最近ではあまり見かけないという花鳥風月や、仏さまや神鹿(春日大社の神の使いである鹿)といった、奈良らしいモチーフをデザインしたものを作っていければと考えているそうです。

「去年イベントに参加した時には、外国の方にもたくさんお声がけいただいて、木型自体を買いたいって結構言われたんです。」

これまでは彫刻の仕事自体が忙しく、外に向けての発信をしていく機会がありませんでしたが、SNSの普及によって多くの人に情報を届けられるようになった今、「220年の型集の歴史」を知っていただけるようになると嬉しいと佐藤さんはおっしゃいました。

一刀ごとの積み重ね

佐藤奈都子さん

一言で「彫る」といっても、作業は何工程にもわたる繊細なものとなります。
デザインによって作業は異なりますが、まずは下絵を張って、彫り方を想像していきます。というのも彫り方には、前述した「彩色彫り」や「肉彫り」以外にも沢山の彫り方があるからです。
デザインによって、その彫る場所によって、それらの彫り方を使い分けていきます。
また、彫りながらも、厚さ0.5ミリだというカッターナイフの刃やシャーペンの芯を当てて、細かく深さを確認します。

佐藤奈都子さん

細かい作業であるだけでなく、いくつもの工程を経て慎重に彫り進めていく墨型彫刻は、本当に根気が必要な技術です。

墨型彫刻

更には、平面であるモチーフの原稿をもとに、立体的な彫刻に仕上げていくためには彫刻師の感性が非常に大切になります。

墨型彫刻

平面の線でもいいけれど、やはり立体的に表現したいと、佐藤さんはご自身でアレンジをされる時もあります。
より良いものを作りたい、という、職人魂の一端を垣間見たような気がします。

伝統を残していく

磨る墨は、書いたものが1000年後も消えずに残っていると証明されている唯一の筆記用具です。
それゆえ、奈良の神社やお寺さんでは今でも、記録を書くときには墨を磨って書いていらっしゃるそうです。

忙しい現代では、なかなか墨を磨って文字を書くこともありませんが、佐藤さんはそれでもいいと考えています。

墨を磨る作業や、その香りが好きな人。
墨のデザインが気に入って、見て楽しむ人。

伝統を残していく

「楽しみ方はそれぞれでいいんです。そうやってもう少し、墨を昔みたいに身近に使っていただけたらなと思います。」

必ず書道をしなければいけない、水墨画を書かなければいけない、などといった事ではなく、「自分なりの墨の楽しみ方」を見つけてもらえると嬉しいと話してくださいました。
型集は1805年に創業して以来、220年の歴史を持ちます。
かつては「墨について知識ある者、型集の名を知らぬ者なし」と言われたくらいの型屋さんだったそうです。

伝統を残していく

220年受け継がれてきた中村家のその彫刻技術は、奈良の技術でもあり歴史でもあるとおっしゃる佐藤さん。

「それを途絶えさせたくない、奈良に残していきたいという気持ちもありますし。型集の名に恥じない八代目にならなければっていう、精進しなければという気持ちもありますね。」

自分が思い描く木型ができるようになるまで、先代たちの背中を追い続けるしかないけれど、そこに終わりはないと思うと佐藤さんはおっしゃいます。

佐藤奈都子さん

伝統の技術を受け継ぎつつ、墨の新しい楽しみ方も伝えていく。
私たちも佐藤さんと共に、墨の文化を後世に繋いでいく一助にならねばと、あらためて強く思いました。

取材・撮影:2025年10月

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