紀州松煙 堀池雅夫

消えゆく松煙墨を守る、本物志向の多才人

紀州松煙 堀池 雅夫 (ほりいけ まさお)

奈良墨の人、今回ご紹介する方は煤(すす)職人さんです。
固形墨、原料はとてもシンプルで煤(すす)・膠(にかわ)・香料の3つのみ。
そのひとつであり、原料の中心となるのが今回紹介する煤(すす)です。
奈良墨には必要不可欠な墨の材料として用いる煤を製造されているのが紀州松煙の煤職人、堀池さんです。

堀池 雅夫(ほりいけ まさお)

赤松を手に、煤に適した材の説明をしてくださっています。

今回の「奈良墨のひと」では、煤の製造現場も大変興味深く拝見させていただきましたが、良い意味で職人の型にはまらない職人堀池さんのお話は、私たち奈良墨の担い手が何を考えるべきか、大切にすべきかを改めて考えさせられました。

墨の歴史と松の煤

先に少しだけ墨の歴史についてお話させてください。
墨は2200年ほど前の中国が起源と考えられております。日本には飛鳥時代、610年に奈良に伝わったと言われています。

赤松の林

つまり日本の墨には約1400年の歴史があります、想像しづらいほどの長い歴史ですね。しかもその長い歴史の中で、基本的な原料はほぼ変わることなく墨の製造は続いてきています。

煤(すす)には大きく分けて2種類の煤があります。
ひとつは赤松の木を燃やして採取する煤、この煤から製造した固形墨を松煙墨(しょうえんぼく)といいます。

赤松の林

赤松の林

もうひとつは菜種油などの油を燃やして採取する煤、この固形墨を油煙墨(ゆえんぼく)といいます。

菜種油の原料、菜の花

菜種油の原料、菜の花

固形墨の原料は全て自然由来です。全て1400年前からそのまま、変わりません。
固形墨の歴史、奈良墨の歴史について言えば、最初に登場するのは赤松を原料とする松煙墨です。時代とともに流行や廃りはあるものの、1000年以上継続して製造されてきた日本最古の墨は松煙墨ということになります。

松煙墨が途絶える危機

そんなとてつもなく歴史ある松煙墨ですが、松煙墨にかかせない赤松の煤を製造される職人さんは、現在なんと日本で堀池さんただ一人です。
つまり堀池さんがお仕事をやめられれば純国産の松煙墨の製造は困難になります。

「今年で煤の仕事はやめようと思っている」

これまで純日本製の松煙墨の全てを担ってこられた堀池さん、お仕事をやめることも考えていらっしゃいます。年齢や体力的な理由もあるそうですが、課題は他にも沢山あるそうです。

奈良墨業界が抱える問題

赤松の木はさすがに堀池さんご自身で用意することは難しいので林業家の方に依頼します。ですがそうした林業に従事されている方々も高齢化が進んでおり、継続的に良質な赤松の材を手に入れることが難しいくなってきたそうです。
また依頼するとまとまった量を発注することになるが、松の煤・松煙墨の需要が減少していて材料ばかりが増えてしまう。そしてなにより利益がそれほど出ない煤製造を、少量の需要のために続けることは困難だと仰られていました。

これは堀池さん個人の問題ではなく、もっと根本的な問題を孕んでいます。
本来こうした構造的な問題は、私たち錦光園も含め奈良墨業界全体でもっと早く、真剣に捉えていかなければいけない課題でした。(固形墨の国内生産9割以上は奈良墨)
しかし、奈良墨業界の中でも墨汁を製造する割合が増えたり、原材料へのこだわりを薄めたり、業界全体を俯瞰できず一部が眼前の売上・利益重視に走り、こうした製造の根底を支えてくれている職人さんの課題を業界全体が自分ごとにできなくなった結果、このような取り返しのつかない事態を招いたということです。
奈良墨の業界の一端を担っている錦光園としても反省すべきだと痛感しております。
実はこうした問題が私たち錦光園が「奈良墨のひと」という取り組みをしている一番の理由です。
奈良墨とりわけ松煙墨の歴史を紡ぐにはどうすれば良いか、この問題は引き続き考え続けていかなければいけません。

煤採取、特殊な設備

話が逸れてしまいましたが、ここから実際に煤の採取現場の画像もふまえて採取方法を紹介していきます。
堀池さんのお仕事の現場は奈良ではなく和歌山県の山奥です。和歌山に煤製造に適した上質な赤松が多かったためこの場所を選ばれました。

実はなかなか奈良墨の作り手である私たちも堀池さんの煤製造現場を拝見する機会はありません。
大変貴重な機会をいただきました、堀池さん有難うございます。

さて実際の現場に入っていきます。
こちらが固形墨の原料 煤製造の心臓部です。

画像からは少しわかりにくいですが、幅約2mづつほどの小部屋になっており、小部屋の仕切りはとても目の細かい網状になっています。

煤の採取の方法

各小部屋の下には小さな扉がついています。ここから火をつけた赤松の木を入れます。

小部屋の下の小さなまどから差し入れます。

とてもよく燃えます。

この赤松もどんな木でも良いと言うわけではなく、油分を多量に含んでいる必要があります。普通は木に火をつけても簡単には燃えませんが、煤の元になる赤松はこのとおりです。

本当によく燃えます。この上の画像右側に写っている黒い煙がまさに「松煙」、煤となって網目にくっついていきます。
煤がつくと小部屋の内側はこんなふうに煤でビッシリに埋め尽くされます。

驚くのは小部屋いっぱいに煤が溜まるまで赤松に火をつけて、くべる作業を数日かけて100時間ほど行う必要があるということ。
12部屋ある小部屋を順次回りながら、繰り返す作業は本当に体力勝負です。
「やっぱりきついよ、この商売は」と堀池さんも言われるほどの大変さ。

まさかこんなにも手作業で時間をかけて煤を採取されているとは想像していませんでした。

赤松を燃やして採取する松煙墨に対して、菜種油などを燃やして採取する油煙墨がありますが、油煙墨は採取方法によってはこれほど手間と時間はかからず一定の量を採取することは可能です。
一般的に松煙墨の煤が価格的に高く、製品となっても高級品・貴重と考えられているのはこのためです。

松煙墨と油煙墨

原料・製造工程が違い、手間と時間がかかる赤松の煤を使った松煙墨は当然価格は安くありません。そんな松煙墨と油煙墨は固形墨として書になったときどのように違いあるのでしょうか?

松煙墨と油煙墨の最も大きな違いは「不純物」が燃えることにより発生する煤粒子の大きさの違いです。

油煙墨は液体の菜種油などを燃やして煤を採取するので、煤にそれ以外のものが混ざることは少ないです。
対して松煙墨については木を燃やして採取するため様々な不純物が混ざってしまいます。実はこの「不純物」が煤粒子の大きさ・凸凹を生みだし、書道などの場面では松煙墨独特のにじみや、あじわいとなると言われています。
油煙墨もにじむのですが、にじみ方に違いが出ます。
また油煙墨は黒から赤みがかった書になるのに対して、松煙墨は黒から青みがかった書になります。これを青墨と言って松煙墨特有のものとして愉しむ方も多くいらっしゃいます。

左が油煙墨、右が松煙墨。固形墨以外の条件は全て揃えて書いてみた比較です。
まずにじみ方が違います。やはり松煙墨のにじみには広がりや味わいがあります。また油煙墨は少しだけ赤っぽいのに対して、松煙墨は黒、この黒は経年すると青墨に変化していきます。
もちろんこれらの違いはそれぞれみなさまの好みですが、違いを知っていただければとても嬉しいです。

この点で比較すると、「墨汁」ではでこのように、にじむ愉しさや他の独特な表現力は中々味わえません。墨汁は擦る必要はなく便利で簡潔ですが、書いた際には半紙の上に墨がべたっとのせているだけのような面持ちです。
そして固形墨は経過による色の変化を愉しむ一面があるのですが、墨汁はこうした情緒的なおもしろさが少ないのが私たち作り手は少し寂しく思います。

最近では、真っ黒ではなく少し青みがかった表現ができる墨を好まれる方も増えました。
一般の方からすると「墨=黒」だと思いますが、実は墨やすり方で全く変わるのが固形墨の奥深い愉しさ。にじみと合わさり少し柔らかい印象を与えることができる松煙墨、それは独自の製法から生まれているのです。
工房にいらっしゃる方々にこうした背景などをご説明するとやはり多くの方が松煙墨を手に取られます。にじみ方や不均一な部分に愉しみを見出すのは、いかにも日本人らしい価値観だと感じます。

松煙と松煙?

赤松から煤を採取される煤職人は堀池さんただひとりです。でも「松煙」の原料表記で販売されている松煙墨も数多くあります。
もちろん純粋な100%の松煙墨もありますが、堀池さん曰く、赤松から採取された松煙でないものや、一部赤松由来の松煙を含むことで松煙墨として販売されているものなどもあるそうです。

「墨屋が積極的に使ってくれたら残ったんだけどね」

本物の松煙は高価です、当然原価・売値が高くなるので松煙墨の良い点を伝えきれない墨屋は松煙・松煙墨に消極的になってしまった。

堀池さん曰く「墨屋は自分たちで宝物を捨てちゃってるんですよ」と。

歴史的にも定義がされていないので、それらを「松煙墨」と表することは間違いではないとは言えますが、堀池さんの仰るように、こうした定義を明確に原材料や使い手に対しての真摯な姿勢の欠如が、結果的にわかりにくさ、そして原材料の供給が困難になるという産業としての根幹を揺るがすことを導いてしまったのかもしれません。
墨屋としてはとても耳が痛くなる話ではありますが、堀池さんのお話は良い意味で職人さんらしくなく、奈良墨の業界を少し引いた位置から俯瞰されていてうなづくばかりでした。

採取後も一手間

先ほどお伝えしたように、100時間かけて12個ある小部屋いっぱいにしておおよそではありますが10kgほどの松煙の煤が取れます。
ですが、採取したての煤はふわふわとしていて体積はものすごく大きいので、こちらの機械で圧縮をかけて私ども錦光園のような各墨製造元に届けていただきます。

逆に10kgの松煙をとるには何キロの赤松が必要になると思いますか?
赤松に含まれる油分などによって変動はありますが、おおよそ500kgだそうです。

約10kgの煤

各種条件によって変動はあるので相当ざっくりとした計算になりますが、一番小さな固形墨が出来上がるのに約1kgの赤松が必要になります。
もちろん固形墨になるには膠や香料も入りますが、一番小さな奈良墨を作るのですら相当な量の赤松が必要だと考えると松煙墨の価格にも合点がいきます。

職人として最後の仕事

工場の入り口にはたくさんの赤松の木がカゴに入って積み上げられていました。

「これで400kgぐらいかな」
「これが無くなればもう煤づくりしないかもしれない。。」

400kgといえば、10kgの煤にも満たない量です。堀池さんであれば一度製造すれば使い切る量です。

堀池さんは奥様のご実家を継ぐ形で煤職人になられました。
それが30数年前。戦前は煤職人も多かったそうですが、戦後量産が必要になり手間と時間のかかる松煙は淘汰。 昭和の後半になり、堀池さんが継がれた頃は、少しづつ松煙の魅力が再認識され出した頃。
そして平成、令和と固形墨の需要は少しづつ減り、今では煤職人は堀池さんのみに。堀池さんは終始明るく話されていましたが、やはり寂しい思いをもたれているのだと思います。

煤職人の副業?

煤職人の堀池さん、すごいところが煤が芳しくないのであればと様々な取り組みにチャレンジされています。
ひとつはオリジナルの固形墨の開発。煤職人である堀池さん自身が技術を習得して工場で作られています。

こちらが堀池さんの墨製造工房

得意とされているのは彩煙墨という色のついた松煙墨。紀州松煙として百貨店にも出店され、大変好評なのだそうです。堀池さんの人柄も人を惹きつけるのだと思います。

あとは水墨画、墨絵。作られた彩煙墨を使った水墨画教室はとても好評で、同じく百貨店で水墨画、墨絵を販売されて今では煤よりも商売としては良いとか。
そしてなんと、YouTubeでも水墨画の書き方などを発信されているというから驚きです。
編集もご自身でされて、すでに数百本以上の動画があがっています。

煤職人でありながら、固形墨も製造し、水墨画も描く。とても珍しい職人さんです。

本物の松煙墨を繋ぐために

松煙墨、にじみや色合いのファンはたくさんいます。錦光園の工房に来ていただいた方がご購入される際、一番の売れ筋はやはり松煙墨です。
みなさま価格は高いですが、どれほどの価値があるのか、また堀池さんのお話を説明させていただくと松煙墨を選び購入されていきます。

繰り返しになりますが、世の中には“本物”の松煙墨が減っています。
私たち墨職人でも実際に使ってみないとわからないので、当然お客様も購入の段階ではわかりません。わかりにくい部分だからこそ奈良墨ブランドと信頼性のためには徹底していかないといけない。この点は堀池さんも強調されていました。

錦光園としての勝手な思いとしては、なんとか堀池さんに煤職人を続けていただきたいと思っています。
もちろんこれは私たちの想いひとつでどうにかなるものではありませんが、本物を知っていただくには本物の職人がいないとできない。
錦光園が徹底して本物を追求し伝えていくことで、堀池さんの煤職人としての想いの火を少しでも大きくすることができればと思っています。

職人らしくもあり、一方でとても柔軟で職人らしくない堀池さんのお言葉ひとつひとつが突き刺さりました。
今、奈良墨の産地はこれまで通りの製造を続け、伝統を継承していくことがまさに崖っぷちの状態です。
これからの時代求められるものを作るためには、このままではいけない、もっと変わらなければいけない。そんな風に堀池さんの言葉から再認識させられました。
快く取材にご協力いただき誠に有難うございました!

取材・撮影:2020年9月

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